細久手宿〜御嶽宿


リサイクル工場の敷地で分断された区間を県道で迂回すると、細久手宿の通りに入る。



何かと思ったら公民館w



その公民館の斜向かいに、旧尾州定本陣・大黒屋がある。
150年前の姿を今に残す国登録有形文化財でもあり、現在は44kmある大井宿〜太田宿で唯一の宿泊施設となっているので、大井〜御嶽の31.4kmを1日で歩き通そうとする私のようなアホを除けば中山道を徒歩で旅する人はほぼ間違いなくここに泊まる。


そんな事情から、ご隠居(先代女将)に「歩いて来られた方?」と訊かれ「そうです」と応えたものの、まだ13時過ぎだった事もあり、向こうもまさか大井から来たとは思わなかったらしく、えらく驚かれた。
大井から大湫まで5時間、休憩を挟んで細久手まで2時間のトータル7.5〜8時間というのが一般的らしいのだが、私はそこを5.5時間で来たようだ。朝の涼しいうちに少しでも進んでおきたいという意識があったとはいえ、道理で息が上がる訳だ。w



昼間はカフェとして使われている1階広間。
私もここでカステラとアイスコーヒーを頂いた。普段はブラック同然で飲んだりする事もあるが、この日は無意識にクリームとシロップを全量投入した。体が欲してたんだなぁ。w


広間に通されるなり、ご隠居が私に2枚のエッセイを手渡した。宿泊者にも配っているもののようだが、1枚が細久手の紹介と彼女の半生・もう1枚が先代当主で彼女の養祖父に当たる人との思い出についてである。前者はこちらで全文を載せられている。私の祖父母より4つ年上なのだが、とても聡明でいらっしゃる。



床の間



2階客室。この日は御嶽から歩いて来るフランス人が宿泊するとか。
京都とかなかまだしも、わざわざ外国まで来て何も無い古道を歩いて登って来ようとは、奇特な方も居るものだ。
途中で擦れ違うだろうと思ってずっと気にしてたのだが、結局会わなかったので、その後どうなったかは知らないが。



2階南西側廊下。



2階回廊から1階を。



逆に同じ場所を1階から。



階段下収納と襖絵。



実にのどかなので少しマッタリさせてもらう。
と言っても、150年の時の流れの中ではそれも一瞬の出来事に過ぎないのだろうが。


休憩を終えて出発する前、ご隠居が見送りがてら軽く話を聞かせてくれた。
山里で不便な事もあるが、バスやタクシーで簡単に街に出られる。どこの集落にも“村のボス”的な存在が居るものだが、細久手にはそれがなく暮らし易いそうで、遍路慣れした人からも「細久手は品の良い町ですね」と言われたりするとか。


最後に「もしまた思い出したらお越し下さい」と言われた。こちらも「行ってきます」と言って旅を再開した。


たった1時間居ただけの場所を「行ってきます」と言って出た事など、今まであったろうか?
言葉では説明しにくいが、この日本という国が失ってはいけない人物だ― と思える雰囲気をまとったおばあさんだった。



現在では取り壊されてしまった細久手本陣跡。
元々大黒屋の本職は問屋業であったが、自領内で他大名と合宿するのを嫌った尾張藩が専用宿舎として指定した訳なので、その他の勅使や大名行列はこちらに泊まっていた。



平岩の辻を過ぎると上りになり、やがて舗装道とも分かれて山道に入るが、その中腹にあるのが秋葉坂の三尊石窟。



更に行くと、左の茂みから中世鎌倉古道が合流してくる鴨之巣辻に出る。合流点に小さな道祖神碑がある。
この辺りで、未舗装道上では大井宿を出て以来初めて自動車とすれ違う。しかも立て続けに2台。



気持ちの良い林間道路の先に鴨之巣一里塚が見える。左右の塚が微妙にずれているが、これも当時のままで、このいい加減さがまた良い。



一里塚から僅か20m程で御嵩町に入る。「御嵩町」と書かれた左の看板と、「ようこそ瑞浪市へ」と書かれた右の看板が、中央の細い溝を挟んでたっているのが分かる。


鴨之巣一里塚を過ぎてからは急な下り坂が続く。さっき十三峠でいい加減上ってきた分+αを下る訳なので、当然と言えば当然なのだが、これが江戸時代の大幹線道路だったと考えるとつくづく恐ろしい。



林を抜けると、右前方に津橋立場が見えてくる。


津橋公民館前に「海抜256m」とある。細久手から標高差164mを54分で下ってきた訳だ。上る時はえらく難儀したのに、下る時は実にあっさりとしたものである。
ただ当然の事ながら、裏返しの江戸方面へ向かう道は強烈な上り坂が続いている訳で、この先御嶽宿までの間、馬の水飲み場・唄清水・一呑清水といった泉が点在する。


津橋集落を出ると、これまた和宮が休憩したという御殿場に続く上り坂に差し掛かる。これ以降、御嶽宿まで上り坂らしい上り坂は無く、最後の頑張り所である。


御殿場からはきつい下りと緩い下りを繰り返す。



その途中にある謡坂一里塚跡。明治維新で取り崩された後、有志により復元した物だとか。



そのすぐ先にある、歌川広重「御嶽」のモデルとなった茶屋跡。



絵の模造板も立てかけられている。



謡坂の石畳を軽快に下る。しつこいようだが、これを逆から行くのはしんどそうだ。



謡坂下の石標。どうみても現代になって作られた物なのに、里程表記されている辺りが何とも粋だ。



耳の病気にご利益があるという耳神社。耳に錐を当て、病気が治ったら年の数だけ錐(それっぽい竹串でも良い)を供えるらしい。
かつて尊皇攘夷派の水戸藩士らが、ここののぼりを敵陣と勘違いし、抜刀して通ったとか。



今度はメートル表記の石標。



馬の鼻欠け坂を下る。車が無かった時代、よほどの急斜面でなければペアピンカーブなど必要なかったろうが、大井〜御嶽で、十三峠のみだれ坂とここの2ヶ所だけはヘアピンカーブだった。

それだけ急斜面であるせいか、私が通った時は道の一部が盛大に崩落していた。



馬の鼻欠け坂を下りてから振り返るとこんな感じ。京方から歩いてきてこれが見えたらゲンナリしそうだ。


道なりにR21に出る。物凄く久しぶりにコンビニを見る。



大湫・細久手で1時間ずつ休憩を挟み、大井から9時間で御嶽宿に到着。
そのつもりはなかったが、ちょっと急ぎすぎたかもしれんw