大湫宿〜細久手宿


中山道47番目の宿場・大湫は、大井〜御嶽が山道であり、しかも8里と長すぎる為に作られた宿駅。



このように枡形になっていて、この曲がり角周辺に、それぞれ集落唯一の農協・簡易郵便局・コミュニティセンター・小学校・商店が集中している。


ちなみに郵便局は15時で閉まる。
商店には冷凍食品やお菓子・カップ麺など日持ちする物は置いてあるが、弁当等は期待できない。



通りはこのような感じ。当時の面影を如実に残していて素晴らしい。

うっかり休憩中に黒電話が鳴る音が聞こえてきたりした。



コミュニティセンターには、和宮振嫁の行列の絵や、当時の屋号が書かれた地図等が展示されている。
事務室に座ってる職員は暫くしてから無言で電気点けに来たりと無愛想だったが、掃除のおばちゃんが「どうぞ扇風機使って下さい」等とエラく親切であった。



センター内には旅ノートもあり、全国の旅行者からの書き込みがあった。
そんな中、私の直前に書いてる人がお隣の三浦市在住だったりw



センターの2階裏口が大湫小学校の校庭に繋がっていて、この校庭付近が本陣跡である。
それにしても風情のある佇まいの学校だ。



その校庭にある和宮歌碑。
「遠ざかる都と知れば旅衣 一夜の宿も立ちうかりけり」という、よく公武合体の悲劇の象徴みたいに紹介される歌はここで詠まれた物のようだ。



付近の街道沿いにある民家。かつての旅籠を見学できるようにしている。



宿内の家々を見ていると、どこも旅籠や商店を辞めた今でも屋号を掲げている。



脇本陣は、現在も民家として使われている。



宿の京方にある神明神社の大杉。6年前に落雷をくらったものの、一部が欠けただけで燃えずに残ったという。



京方では蔵を備えた家が目立つ。



高札場と灯篭。



再現とはいえ、間近で見るとデカい高札場である。



二つ岩を過ぎ、



大湫病院の脇を通過すると、右側に琵琶峠登山口が現れる。大湫の町に入ってすっかり散っていったハエが再び集る。
それにしてもこの大湫病院、人里離れた所にある300床程度の精神科単科病院であるにも拘らず、どこから湧いてきたのかというくらい駐車場がビッチリ車で埋まっている。




標高558mの琵琶峠に到達。信濃美濃国境の十曲峠よりも京方ではここが最高地点。見ての通りここも石畳が敷き詰められているが、その長さは500mを超え、日本最長だったらしい。
尤も、息は切れるわハエは鬱陶しいわで、峠脇の見晴台に登る事もなく先を急いでしまったので、そうと気付く余裕は無かったが。


大井宿から琵琶峠まで累積標高にして1600m以上、富士山新五合目から山頂までとほぼ同等の上り坂を辿ってきたが、あとは多少の上りはありながらも全体として下るルートになるので、少しホッとする。



石畳の途中にある八瀬沢一里塚。ここも街道の両側に一対キレイに残っている。
石畳を下り切って舗装道を横切る辺りで、舗装道を南側から登ってくる中年男女のハイカーと交差する。



下草に覆われた道を下ると八瀬沢立場。



八瀬沢集落を過ぎてすぐ、道が3つに分かれる何とも悩ましい場所が。
正解は一番左の道だが、「細久手近道」と書かれた矢印が中途半端か、やや真ん中の道に向いて立っていて惑わされる。



ちなみに左の正しい道と真ん中の道が再合流する地点がコレ。振り返っているので先程と左右が逆転するが、こちらも左の道に「↑大湫宿の看板が…
要するに東西どちらから行っても、自分を信じて進まないと間違った道に誘導される仕様になっている。(×



迷う人が多いのか、2年前にこのような案内標識が新設された。
私が見た限りでもここだけでなく随所に設置されていて、今では街道筋を辿って歩くだけなら地図が要らないくらいだ。



上の新標識ができる前、正解の道を選んだ目印になっていたのがこの国際犬訓練所。



観光客用のドッグランもあるが、付近は時々トラックが走る程度で、客はおろか人の気配がしない。



大湫〜細久手のほぼ中間地点に当たる弁財天の池。杜若と蓴菜が自生しているらしい。蓴菜というと東北のイメージがあったのだが。
ちなみに大湫〜細久手の6kmの間、民家らしい民家といえば、八瀬沢とここ弁天池に10軒くらいずつある他はほとんど見当たらない。前述の通りケータイの電波だけは概ねバリ3なのだが…




奥之田一里塚は、塚の裏に回って見る事もできる。
この辺りでもハエが群がって来たので、撮影の為にハエを払いながら振り返ったちょうどそのタイミングで、塚の裏からかなり大きな虫が飛んできて私の頭直上を掠めて行った。咄嗟に声を出ながら首を屈めたら、予てよりの筋肉疲労とイオン不足で後頚筋が攣る。


ここを過ぎると、細久手宿は近い。