大井宿〜大湫宿

中山道まで2分で出られるホテルでしっかり睡眠と朝食をとり、7:40、大井宿の西端である大井橋からスタート。

良い風情っすなぁ。



和宮降嫁の際、隣の大湫宿助郷であるにも拘らず「人手を貸せ」と代官から吹っかけられた村の代表が、その代官を滞在先であったこの庄屋で切り付けた。
その時は命を取り留めた代官も後の裁きで失脚し、村の代表は地元で義民扱いさせるようになったとか。



道なりに大通りに出て、西行硯水公園の先で右に折れて中央本線の踏切を渡る。



のどかだなぁ…



と思ったのも束の間、中央自動車道の高架下(本来の中山道は高速道路のある所を斜めに横切っている)を過ぎてすぐに急な上り坂に。十三峠の始まりである。



「十三峠におまけが七つ」のうち1つ目の西行坂。一応これでもカメラをかなり上に振って撮影してるんだが…



ノッケからなかなかアグレッシブだった傾斜が少し緩んだ所にあるのが槙ヶ根一里塚。江戸から88里目だそうだ。
中山道の一里塚では志村(3里目)や辻(5里目)など、稀に保存・再建されている物があるが、大井〜御嶽では7つあったはずの塚のうち、実に4つがほぼ往時のまま現存・1つが再建という形で残されている。



見晴らしの良いこの辺りには休憩所が設けられているので、トイレを済ませつつ、早速噴き出してきた汗を洗い流す。



何とも懐かしい「J-PHONE」の文字。付近には他社の中継局も見られる。
そのせいかどうかは知らんが、大井〜御嶽は人里離れた山道が続くにも拘らず、ほとんどの場所でケータイの電波がバリ3だった。熱中症マムシ・ケガ等の心配がある状況下で独り歩いていると、これは地味に心強い。



一旦舗装道に合流してから、すぐに建設会社の敷地脇の山道を上がると、槙ヶ根追分がある。
「左 伊勢名古屋 右 西京大坂」の石標は明治初期の建立で、伊勢に行く時間やお金がない旅人はここで手を合わせたとか。


ちなみに宿場保護の為、公的使節や商用貨物は名古屋方面に向かう場合でも下街道を通ってはいけなかった。これは、後述する尾張藩の定宿が細久手宿内にあった事からも分かる。
まぁ実際には商人がジャンジャン下街道を通ってたみたいだが。



中山道本線・京方から追分を振り返った所。



くねくねと曲がりながらゆったり下る。少しホッとできる区間



厳しい道が続くこの辺りは、行き倒れた馬や人が多かったのか、随所に馬頭観音や供養塔が見られる。



楽宮(12代将軍家慶正室)や和宮が休憩したという姫御殿の跡。
見晴らしの良い場所だったというが、今は高い樹がやや邪魔しており、遠方を望むには向いていない。




緩やかだった坂が急にヘアピンカーブを描き始める場所が「みだれ坂」。これを下りきった先の沢に架かるのが「みだれ橋」。
江戸方・京方どちらから行っても突如出現する急坂であり、息が乱れ、服が乱れ、行列が乱れたとか。特に京方からだと上り坂になるので大変だったろう。



これを過ぎると四ツ谷立場に入る。恵那の市街地を発って5km、初めての集落であり、もはやひと気があるというだけでエラく安心する。



四ツ谷集落の西の外れにある分かれ道を左へ。



緩やかな坂を2〜3越えると、田んぼの脇の茂みの中に紅坂の一里塚が見えてくる。
と、ここでまさかの天気雨。しかも霧雨とかではなく、結構マジな大きさの雨粒がパラパラと落ちてくる。


この先、御嶽まで25km。いくらなんでも冗談がキツい。



紅坂一里塚で3分ほどの給水休憩。まだ止まない雨。



雨が止んだ所で石畳の坂を下りると、佐倉惣五郎大明神が。
千葉の人には“宗吾参道”のソウゴ、日本史選択の人には“磔茂左衛門”とセットで出てくる人― と言えばお分かりだろうか。しかし、関東の義民の名がなぜここに?


どうも代官に立ち向かった先程の村民が佐倉宗五郎と重なる事から、見立てて奉った物と思われる。



川と国道を渡った所に藤村高札場が見えると、その先が深萱立場。



ここの休憩所になっていてトイレがキレイ。用を達し、腕と顔の汗を落として再出発。
案内図にある「大湫 5.1km」の表示に、「あと一息だ」と俄然元気が出る。



三ッ城峠を越え、舗装道に合流した所に「中山道」の石碑。江戸方からだと背中しか見えないので振り返って撮影。


写真の路面が水玉模様になっているのは、別にそういう道だからではなく、ここで再び天気雨が来たからである。本気で後が思い遣られ始める。


石碑の直後、観音坂で散歩中の中年男性を追い越し様「おはようございます」「降り出しましたね」と会話を交わす。恵那のホテルを発って以来初めての会話。w



茶屋跡の中には、今も見晴らしの良さそうな場所もある。そんな訳でこの時は小雨でダメだったが。


大久後立場で休憩中に男性に追い付かれ、「今朝恵那を出て歩いてきた」と話すと、「いや〜若い人は元気だね〜」等と言いながら彼は釜戸方面へと下って行った。



またもくねくねと気持ちの良い坂。



と、樫の木坂石畳の手前で遂にホコ天化。
恵那市内はどこも頑張れば車が通れるようになっていたので、純然たる規制区間は初めて。



尤も、これを車で通りたいかと言われると…



石畳を上った先に権現山一里塚がある。ここで一旦下りに転じた後、またダラダラとした上りが続く。
この辺りから大湫に入るまで、前を見て歩くのが困難なレベルの数のハエが集ってきて無駄に疲れる。



誰ともなく一つまた一つと積まれる石。山道らしくて良い。



病気になった旅人が念仏を唱えたところ、水が湧いて助かったというお助け清水。
なぜか8月1日には枯れないそうで、私が行った8月24日もそれなりの水があった。



道の両側をゴルフコースが囲む。その名も「中仙道ゴルフクラブ」。
それは構わないのだが、時折OBしたボールが街道上に転がってるのだ。ただでさえマムシとハエに注意しながら歩かねばならんのに、そこにゴルフボールが加わるとは…w



先程から馬頭観音が多いが、それらが合祀されている場所もある。



ふと道端に茶畑がある箇所も。ちょっと驚き。
そしてその先の林を抜け、舗装道を斜めに横切りながらダラダラと上る。頂上を過ぎると急な下り坂となり、視界が開けると…



大湫宿の町並みが見えてくる。
大井宿から13.5km、高低差240mを上り下りしながら歩き切った末にこの光景を目にすると、鳥肌が立つ程の嬉しさがある。

大湫宿〜細久手宿


中山道47番目の宿場・大湫は、大井〜御嶽が山道であり、しかも8里と長すぎる為に作られた宿駅。



このように枡形になっていて、この曲がり角周辺に、それぞれ集落唯一の農協・簡易郵便局・コミュニティセンター・小学校・商店が集中している。


ちなみに郵便局は15時で閉まる。
商店には冷凍食品やお菓子・カップ麺など日持ちする物は置いてあるが、弁当等は期待できない。



通りはこのような感じ。当時の面影を如実に残していて素晴らしい。

うっかり休憩中に黒電話が鳴る音が聞こえてきたりした。



コミュニティセンターには、和宮振嫁の行列の絵や、当時の屋号が書かれた地図等が展示されている。
事務室に座ってる職員は暫くしてから無言で電気点けに来たりと無愛想だったが、掃除のおばちゃんが「どうぞ扇風機使って下さい」等とエラく親切であった。



センター内には旅ノートもあり、全国の旅行者からの書き込みがあった。
そんな中、私の直前に書いてる人がお隣の三浦市在住だったりw



センターの2階裏口が大湫小学校の校庭に繋がっていて、この校庭付近が本陣跡である。
それにしても風情のある佇まいの学校だ。



その校庭にある和宮歌碑。
「遠ざかる都と知れば旅衣 一夜の宿も立ちうかりけり」という、よく公武合体の悲劇の象徴みたいに紹介される歌はここで詠まれた物のようだ。



付近の街道沿いにある民家。かつての旅籠を見学できるようにしている。



宿内の家々を見ていると、どこも旅籠や商店を辞めた今でも屋号を掲げている。



脇本陣は、現在も民家として使われている。



宿の京方にある神明神社の大杉。6年前に落雷をくらったものの、一部が欠けただけで燃えずに残ったという。



京方では蔵を備えた家が目立つ。



高札場と灯篭。



再現とはいえ、間近で見るとデカい高札場である。



二つ岩を過ぎ、



大湫病院の脇を通過すると、右側に琵琶峠登山口が現れる。大湫の町に入ってすっかり散っていったハエが再び集る。
それにしてもこの大湫病院、人里離れた所にある300床程度の精神科単科病院であるにも拘らず、どこから湧いてきたのかというくらい駐車場がビッチリ車で埋まっている。




標高558mの琵琶峠に到達。信濃美濃国境の十曲峠よりも京方ではここが最高地点。見ての通りここも石畳が敷き詰められているが、その長さは500mを超え、日本最長だったらしい。
尤も、息は切れるわハエは鬱陶しいわで、峠脇の見晴台に登る事もなく先を急いでしまったので、そうと気付く余裕は無かったが。


大井宿から琵琶峠まで累積標高にして1600m以上、富士山新五合目から山頂までとほぼ同等の上り坂を辿ってきたが、あとは多少の上りはありながらも全体として下るルートになるので、少しホッとする。



石畳の途中にある八瀬沢一里塚。ここも街道の両側に一対キレイに残っている。
石畳を下り切って舗装道を横切る辺りで、舗装道を南側から登ってくる中年男女のハイカーと交差する。



下草に覆われた道を下ると八瀬沢立場。



八瀬沢集落を過ぎてすぐ、道が3つに分かれる何とも悩ましい場所が。
正解は一番左の道だが、「細久手近道」と書かれた矢印が中途半端か、やや真ん中の道に向いて立っていて惑わされる。



ちなみに左の正しい道と真ん中の道が再合流する地点がコレ。振り返っているので先程と左右が逆転するが、こちらも左の道に「↑大湫宿の看板が…
要するに東西どちらから行っても、自分を信じて進まないと間違った道に誘導される仕様になっている。(×



迷う人が多いのか、2年前にこのような案内標識が新設された。
私が見た限りでもここだけでなく随所に設置されていて、今では街道筋を辿って歩くだけなら地図が要らないくらいだ。



上の新標識ができる前、正解の道を選んだ目印になっていたのがこの国際犬訓練所。



観光客用のドッグランもあるが、付近は時々トラックが走る程度で、客はおろか人の気配がしない。



大湫〜細久手のほぼ中間地点に当たる弁財天の池。杜若と蓴菜が自生しているらしい。蓴菜というと東北のイメージがあったのだが。
ちなみに大湫〜細久手の6kmの間、民家らしい民家といえば、八瀬沢とここ弁天池に10軒くらいずつある他はほとんど見当たらない。前述の通りケータイの電波だけは概ねバリ3なのだが…




奥之田一里塚は、塚の裏に回って見る事もできる。
この辺りでもハエが群がって来たので、撮影の為にハエを払いながら振り返ったちょうどそのタイミングで、塚の裏からかなり大きな虫が飛んできて私の頭直上を掠めて行った。咄嗟に声を出ながら首を屈めたら、予てよりの筋肉疲労とイオン不足で後頚筋が攣る。


ここを過ぎると、細久手宿は近い。

細久手宿〜御嶽宿


リサイクル工場の敷地で分断された区間を県道で迂回すると、細久手宿の通りに入る。



何かと思ったら公民館w



その公民館の斜向かいに、旧尾州定本陣・大黒屋がある。
150年前の姿を今に残す国登録有形文化財でもあり、現在は44kmある大井宿〜太田宿で唯一の宿泊施設となっているので、大井〜御嶽の31.4kmを1日で歩き通そうとする私のようなアホを除けば中山道を徒歩で旅する人はほぼ間違いなくここに泊まる。


そんな事情から、ご隠居(先代女将)に「歩いて来られた方?」と訊かれ「そうです」と応えたものの、まだ13時過ぎだった事もあり、向こうもまさか大井から来たとは思わなかったらしく、えらく驚かれた。
大井から大湫まで5時間、休憩を挟んで細久手まで2時間のトータル7.5〜8時間というのが一般的らしいのだが、私はそこを5.5時間で来たようだ。朝の涼しいうちに少しでも進んでおきたいという意識があったとはいえ、道理で息が上がる訳だ。w



昼間はカフェとして使われている1階広間。
私もここでカステラとアイスコーヒーを頂いた。普段はブラック同然で飲んだりする事もあるが、この日は無意識にクリームとシロップを全量投入した。体が欲してたんだなぁ。w


広間に通されるなり、ご隠居が私に2枚のエッセイを手渡した。宿泊者にも配っているもののようだが、1枚が細久手の紹介と彼女の半生・もう1枚が先代当主で彼女の養祖父に当たる人との思い出についてである。前者はこちらで全文を載せられている。私の祖父母より4つ年上なのだが、とても聡明でいらっしゃる。



床の間



2階客室。この日は御嶽から歩いて来るフランス人が宿泊するとか。
京都とかなかまだしも、わざわざ外国まで来て何も無い古道を歩いて登って来ようとは、奇特な方も居るものだ。
途中で擦れ違うだろうと思ってずっと気にしてたのだが、結局会わなかったので、その後どうなったかは知らないが。



2階南西側廊下。



2階回廊から1階を。



逆に同じ場所を1階から。



階段下収納と襖絵。



実にのどかなので少しマッタリさせてもらう。
と言っても、150年の時の流れの中ではそれも一瞬の出来事に過ぎないのだろうが。


休憩を終えて出発する前、ご隠居が見送りがてら軽く話を聞かせてくれた。
山里で不便な事もあるが、バスやタクシーで簡単に街に出られる。どこの集落にも“村のボス”的な存在が居るものだが、細久手にはそれがなく暮らし易いそうで、遍路慣れした人からも「細久手は品の良い町ですね」と言われたりするとか。


最後に「もしまた思い出したらお越し下さい」と言われた。こちらも「行ってきます」と言って旅を再開した。


たった1時間居ただけの場所を「行ってきます」と言って出た事など、今まであったろうか?
言葉では説明しにくいが、この日本という国が失ってはいけない人物だ― と思える雰囲気をまとったおばあさんだった。



現在では取り壊されてしまった細久手本陣跡。
元々大黒屋の本職は問屋業であったが、自領内で他大名と合宿するのを嫌った尾張藩が専用宿舎として指定した訳なので、その他の勅使や大名行列はこちらに泊まっていた。



平岩の辻を過ぎると上りになり、やがて舗装道とも分かれて山道に入るが、その中腹にあるのが秋葉坂の三尊石窟。



更に行くと、左の茂みから中世鎌倉古道が合流してくる鴨之巣辻に出る。合流点に小さな道祖神碑がある。
この辺りで、未舗装道上では大井宿を出て以来初めて自動車とすれ違う。しかも立て続けに2台。



気持ちの良い林間道路の先に鴨之巣一里塚が見える。左右の塚が微妙にずれているが、これも当時のままで、このいい加減さがまた良い。



一里塚から僅か20m程で御嵩町に入る。「御嵩町」と書かれた左の看板と、「ようこそ瑞浪市へ」と書かれた右の看板が、中央の細い溝を挟んでたっているのが分かる。


鴨之巣一里塚を過ぎてからは急な下り坂が続く。さっき十三峠でいい加減上ってきた分+αを下る訳なので、当然と言えば当然なのだが、これが江戸時代の大幹線道路だったと考えるとつくづく恐ろしい。



林を抜けると、右前方に津橋立場が見えてくる。


津橋公民館前に「海抜256m」とある。細久手から標高差164mを54分で下ってきた訳だ。上る時はえらく難儀したのに、下る時は実にあっさりとしたものである。
ただ当然の事ながら、裏返しの江戸方面へ向かう道は強烈な上り坂が続いている訳で、この先御嶽宿までの間、馬の水飲み場・唄清水・一呑清水といった泉が点在する。


津橋集落を出ると、これまた和宮が休憩したという御殿場に続く上り坂に差し掛かる。これ以降、御嶽宿まで上り坂らしい上り坂は無く、最後の頑張り所である。


御殿場からはきつい下りと緩い下りを繰り返す。



その途中にある謡坂一里塚跡。明治維新で取り崩された後、有志により復元した物だとか。



そのすぐ先にある、歌川広重「御嶽」のモデルとなった茶屋跡。



絵の模造板も立てかけられている。



謡坂の石畳を軽快に下る。しつこいようだが、これを逆から行くのはしんどそうだ。



謡坂下の石標。どうみても現代になって作られた物なのに、里程表記されている辺りが何とも粋だ。



耳の病気にご利益があるという耳神社。耳に錐を当て、病気が治ったら年の数だけ錐(それっぽい竹串でも良い)を供えるらしい。
かつて尊皇攘夷派の水戸藩士らが、ここののぼりを敵陣と勘違いし、抜刀して通ったとか。



今度はメートル表記の石標。



馬の鼻欠け坂を下る。車が無かった時代、よほどの急斜面でなければペアピンカーブなど必要なかったろうが、大井〜御嶽で、十三峠のみだれ坂とここの2ヶ所だけはヘアピンカーブだった。

それだけ急斜面であるせいか、私が通った時は道の一部が盛大に崩落していた。



馬の鼻欠け坂を下りてから振り返るとこんな感じ。京方から歩いてきてこれが見えたらゲンナリしそうだ。


道なりにR21に出る。物凄く久しぶりにコンビニを見る。



大湫・細久手で1時間ずつ休憩を挟み、大井から9時間で御嶽宿に到着。
そのつもりはなかったが、ちょっと急ぎすぎたかもしれんw