箱根東坂の難所へ
渋滞するR1を横断し、三枚橋から湯本温泉郷へ入ると、早速ダラダラとした上り坂。
狭い道ながら交通量が多く、歩きにくい。
歩きにくい温泉郷を抜けるとまもなく最初の猿沢石畳。急に心地良くなる。
道が下っているのは川を越える為。越えればまた箱根らしい上りが始まる。
石畳が終わると県道に放り出されるのだが、カーブが多く見通しが悪いのに歩道がない上、バスやトラックが頻繁に往来するので、先程よりも歩きにくい。特に須雲川ICの手前までがひどく、晴れた午前中だというのに危険だと感じる。
須雲川の集落を越えて自然歩道入口まで来た時はホッとした。
ここは東京電力が保全を行っている社有地らしい。尾瀬と同じ感じか。
洗い越しwww
昔の人は草鞋を浸して通り過ぎたのかもしれないが、現代人の運動靴は濡れると至極面倒な事になるので、飛び出てる石を伝って行く。
須雲川を越える所は、岩の間に細い木橋が2本渡してあるだけ。従って須雲川増水時は自然歩道自体が通行禁止になる。昔は木橋すら無かったのだろうから、ちょっと水が増えたらなかなかの覚悟が必要だったろう。
県道を横切ると、江戸時代の石畳が残る場所へ。
箱根東坂の結構な部分が、関東大震災・北伊豆地震など度重なる災害で失われた後に復元されたものだそうだが、往時の貴重な遺構もこうして所々に残っている。
この先でもう一度川を渡るが、そこからの上りが「大澤坂」。
急坂にも拘らず暗く湿っており、所々“苔むしてる”という程ではないが苔が生えている。
唱歌にある「羊腸の小径は苔滑か」とは、ここの事ではないかとさえ思えた。コケないよう小股で着実に上る。
総領事ハリスが下田から江戸に向かう際に休憩したという畑宿本陣跡。
箱根関所の厳格な態度に腹を立てたハリスが、ここにあった美しい日本庭園を見てすっかり上機嫌になったとか。
しかし、正式な宿場でもないのに本陣があるってパネェな。
集落の京方の端にある畑宿一里塚。江戸から23里目に当たる。
ってか写真中央の女性、自分が撮り終わったらサッサとどけよ。これだから素人は困る。
畑宿から甘酒茶屋まではより傾斜がキツくなる。車道はヘアピンカーブで高度を稼ぐが、部分的に残る旧街道はお構いナシに真っ直ぐ上るので余計にすごい。
長い距離歩いてると通常、膝から下や腰に大きな負担が来るのだが、この区間、特に橿木坂を登った時は大腿四頭筋にきた。昔の人は、この橿木坂がキツくてどんぐり程の涙がこぼれた― 等と上手い事を言ったらしい。
ここを越えると、追込坂という緩い道を経て甘酒茶屋に至る。
鎌倉時代、東国布教を終えた親鸞聖人が「我々が帰京したら東国はどうなるのか…」と言い、弟子の一人を引き返させたという―
だったらこんな山道登る前に言っとけよ。
甘酒茶屋〜箱根峠
板橋見附を出て3時間弱で甘酒茶屋に到着。とにかくここまでは大きな休憩をせず行こうと思ってたので、ここでは甘酒と餅でゆっくり休憩。
と、元箱根方面から旧道を通って続々と人が来た。歩いてくる人の中には子供連れのファミリーもいる。
甘酒茶屋〜関所跡は、3kmあまりという区間に石畳や杉並木といった名所がコンパクトにまとまっていて、手頃なハイキングコースであるようだ。実際歩いてみても、この区間は人が多い。
杉並木を経て関所跡へ。ずっと林の中を歩いてきたので、久々の喧騒。
関所跡の櫓から見た芦ノ湖。いや〜絶景。
関所の京方にある夕霧荘で日帰り入浴。汗とニオイがいい加減凄かったので助かった。
ここは、参勤交代の大名が宿泊した本陣が実際にあった場所だとか。
箱根駅伝ミュージアムは、そこから150m程京方にある。
東洋大・柏原の山登り大逆転シーンは何度見ても鳥肌が立つ。
そういえば、駅伝ランナーって小田原から1時間ちょっとでここまで来るんだよね?
今さっきへーこら言いながら4時間かけて上がってきた道よりちょっと遠回りなルートを、彼らは走るんだよね?
ってかそれでも、甘酒茶屋の女将には「速いね〜」って言われたくらいなんだが…
連中、正気の沙汰じゃねぇわw
そして芦ノ湖ゴール地点を見。
車で数回来た事があったが、まさかあそこに小田原から歩いて行く事になろうとは…
標高846m、東海道最高地点の箱根峠に到達。
しかしこの直前、どうあっても交通量の多い車道を2回横切らねばならないのは何とかならんものか。
箱根西坂
箱根西坂に入っても、コンクリ未舗装の坂道はずっと石畳のターン。
土の道と違って足底に均等に体重が載らないので、足が痛くなる。
古道を歩いていると、一見民家の軒先みたいな所に出る事が多いが、天下の東海道と言えどその例外ではなかった。
ちなみに箱根峠からこのちょっと先まで、旧街道が三島市と函南町の境になっているので、この民家の住所は三島市・畑は函南町という事になるだろうか。
山中城址の手前の路傍に、酒呑みだった雲助徳利*1の墓がある。
時代が下った現代、私が通った時は、誰が供えたのかビールジョッキが置かれていた。粋な計らいである。
そして、この辺りは見事に自販機がない。
思えば元箱根から8km、新たな飲み物を買っていない。オマケに温泉など入ったせいか、心なしか喉の渇きが早い。
箱根峠のドライブインで買えば良かったと後悔し始めた頃には、また林の中。
山中城址の手前で何とか1基の自販機が稼動しているのを見付けた時は救われた。
山中城址を過ぎた先で見事な富士山に遭遇。ちなみに、その一帯を「富士見平」というらしい。
山も美しければ、海も美しい。笹原新田にて眼前に駿河湾が。
この時ちょうど午後3時。昔の人は1日10里歩いたので、江戸を出て3日目のちょうどこのくらいの時間にここを通る事になる。彼らもこんな景色を目にしたのだろうか。
ふと富士山に背を向けると、こちらも広々とした丘が続く。
この辺りは元々、鉄道の開通による通行者の減少で失業した沿道商人が始めた農地だという。
塚原新田の「箱根路」と彫られた石標の所でR1に合流。
まもなく松並木が始まる。
松並木の途中にある錦田一里塚。こちらはしっかり一対残っている。
五本松交差点を右前に入り、道なりに三島市街地を目指す。
*1:彼は松谷久四郎と名乗り、一説には西国大名の剣道指南役でしたが、大酒飲みのために事件を起こして、国外追放となり、箱根で雲助の仲間に入りました。優れた剣術の腕前があったので、雲助をいじめる武士をこらしめたり、読み書きができるので、文字が読めない雲助たちの手紙を読んで雲助仲間から親分以上に慕われるようになりました。しかし、普段はお酒を飲んでごろごろしていたので命を縮めることになってしまったのです。彼を慕い彼に助けられた雲助仲間は、ある日相談して金を出し合い、生前お世話になったお礼に、立派なお墓をたてて恩返しすることにしました。そして、その墓には彼が一生飲み続けた酒を、盃と徳利で刻むことにしました。これが彼に対する最大の供養と考えたのです。「箱根の雲助」は、悪者の代表のように言われています。しかし、もし雲助がいなかったら、箱根の坂をのぼれない弱い女性や病人はどうしたのでしょう。重い荷物は誰が運んだのでしょう。このほほえましい徳利の墓を見ていると、雲助たちの温かい人情が伝わってくるような気がします。なお、この墓の最初の位置は、山中の一里塚のあたりでしたが、いつの日かこの地に移ってきました。酒飲みの墓ですので、ふらふらして一箇所に落ち着かないようです。(三島市の説明文コピペ)